竹中氏陣屋

別名 岩手城
    竹裏館
      岩手陣屋 
付近住所 岐阜県不破郡垂井町岩手619-2 現在 岩手小学校
2007/9/15 碑・案内板アリ 日本城郭大系


竹中氏  この先100mに岐阜県指定史跡の竹中氏陣屋跡があります。天正17年(1589年)竹中半兵衛重治の嫡子である重門は、豊臣秀吉からこの付近の村、岩手・府中・関ヶ原・藤下・山中の諸村5千石が与えられました。このとき改装したものが現在陣屋跡として残されていて、やぐら門、石垣、堀などがあり往時がしのばれます。

竹中半兵衛重治公
 豊臣秀吉の軍師としてその名も高い竹中半兵衛重治は、楠公の再来ともいわれ、「智謀神の如し」とまで称された。半兵衛が今もなお人々の心を捕らえるのは、卓越した知識と洞察力、戦功あっても浮雲欲心なく、高名を望まず、壮図半ばに若くして空しく倒れ、軍師の美学に生きた生涯だといわれている。

半兵衛公の智略表舞台へ
 半兵衛は幼いころから学を好み、中国の兵法書を学び、もの静かな人柄は、戦乱うずまく時代に生きる武将としては、頼りなく思われ、仕えていた主君斎藤龍興や家臣達から「うつけ者」とさえ嘲笑された。
 永禄7年(1564)、そんな批評を吹き飛ばし美濃に半兵衛ありと全国にその名を知らしめた離れ業は、道三が築いた、難攻不落の城「稲葉山城奪取事件」である。そのころ、天下統一を狙っていた織田信長が、この報を聞き美濃国の半分を与える条件でその城の譲渡しを申し入れたが、半兵衛は、「主君を諌める為、かかる大事を決行しただけ、何れ城は主君龍興に返す所存」といって拒絶した、この一件は、今まで軽視されていた周囲への初めての自己主張であった。

秀吉と半兵衛公
 藤吉郎(後の秀吉)は、信長の命を受け栗原山に閑居中の半兵衛を訪ね、家臣に迎えるべく三顧の礼を尽くし説得した。半兵衛は藤吉郎の人柄に引かれ信長に仕え藤吉郎の与力となった。その後、形影相伴って各地を転戦し奇策縦横作戦は常に功を奏し、知謀の将として半兵衛の名は全国津々浦々に知れわたり秀吉の天下統一への歩みを固めた。
 天正7年(1579)、三木城(兵庫県)攻略中病に倒れ、秀吉の勧めによって京都で静養していたが、再び病をおして平井の戦場にもどり、6月13日36歳で没した。秀吉は臨終にのぞみその手をとり「劉禅、孔明を失いしにことならず。」と嘆き悲しんだという。今は菩提山城の麓にある豊かな緑に包まれた禅幢寺で静かに眠っている。

旗本竹中氏
 半兵衛の子重門は、関ヶ原合戦では東軍に属し、旧好の友黒田長政と共に石田隊を攻め戦功をあげた。戦後菩提山城を下り陣屋を構え6千石の旗本として徳川家に仕えた。学問を好み林羅山と交友深く、文武両道に秀いでた武将で著書に「豊鑑」がある。
 天保年間に菁莪堂を設け家臣らの教育に努め、幾多の人材を輩出した。明治になり菁莪義校、岩手小学校となった。
 現在は、旗本竹中家関係及び当時の学校の史料などが、菁莪記念館に保存されている。

竹中半兵衛重治(1544年〜1579年)
 重治公はこの地の菩提山城を本拠とし、智謀神の如しといわれた名軍師で、木下藤吉郎に三顧の礼をもって迎えられた。信長に仕え、秀吉の懐刀となり、形影相伴って各地を転戦し、知恵袋として活躍した無欲の武将であった。播州三木城攻略中惜しくも36才の若さで陣没した。墓はここより北5百mの禅幢寺にある。